記憶の障害や改ざんは自身の過去とアイデンティティーを失うという、ある種究極の恐怖を描いていることもあり、これまでに多くの映画で題材となってきた。例えば『エターナル・サンシャイン』や『トータル・リコール』、『メメント』に『インセプション』、『ボーン・アイデンティティー』などヴァラエティに富んだジャンルの秀作が挙げられるが、ソ・ユミン監督の『君だけが知らない』は大ドン返しのあるサスペンスフルなクライムスリラーでありつつ、着地点がドラマティックで感動的な家族の愛の物語というところが韓国映画らしくもあり、新しい。現在と過去の記憶とミステリーが複雑に入り乱れるトリッキーなこの映画の謎とそこに含まれる魅力を、ここで解き明かしてみたい。
小林真里(映画評論家/映画監督)
- 未来は過去
- まず、『君だけが知らない』には2つの大きなツイストがある。記憶を失ったキム・スジンの脳裏に、ひょんなきっかけで突然あるイメージが鮮烈に浮かび上がり、彼女は予知能力で未来が見えるのか? とまるでSFを匂わせる展開になるが、次第に実は「未来」ではなく、転落事故の衝撃で封印されていたスジンの「過去」の記憶が断片的に蘇り、現実世界に溢れ出ていたことが判明する。映画序盤で、ピンク色のリュックを背負った少女が横断歩道で車に轢かれそうになる光景をスジンが目撃するが、これは過去の自分に起こった出来事であり、幼い彼女のそばで見守っている少年はキム・ソヌだ。
- キム・ソヌの正体
- もう一つのダイナミックなツイストは、スジンを献身的に支える男の正体が夫イ・ジフンではなく、兄キム・ソヌだったというところ。家族を失ったチェ・スジン(旧姓)を養子に迎えた先の血の繋がっていない兄である。どこか不自然で何かを隠しているソヌに対し、次第にスジン同様に我々観客も疑惑の目を向ける。サイコロジカル・スリラーの趣だが、これらのツイストのおかげもあって予測不可能なスリリングな物語を力強く牽引していく。映画の前半で、ベッドで眠るスジの横で布団を敷いて寝ているソヌの姿を見て「夫婦なのになぜ?」と疑問を抱いた人も、その正体を知り納得がいったことだろう。
- スジンとソヌの関係
- 自分の目の前で車に轢かれそうになったあの少女(実は過去の自分)を翌日偶然見つけたスジンは、エレベーターの中で彼女に話しかけるが、3階の部屋で母親に玄関で迎えられる少女の姿と、少年(ソヌ)がその家に駆けつける様子、そして母親が料理中にガスの爆発事故が起こるビジョンを見る。これはスジンが母親(唯一の肉親?)を失うことになった悲しい事件の記憶であり、ソヌは妹になる前からスジンと仲の良い幼馴染だった、という重大な事実を示唆しているのだろう。
- 706号室
- マンションのエレベーターで遭遇したスーツ姿の男が女子高生を襲うビジョンを見て、夜中にその現場である706号室に向かうスジン。彼女はそこで女性の叫び声を聞き、ソヌが大きなスーツケースを持って立ち去る光景を目にする。そこはかつて、スジンが養父キム・テジュンと一緒に暮らしていた部屋だった。2003年9月、テジュンが女子高生のスジンを殴り首を絞めているところにソヌが帰宅し、父を馬の置物で殴打し殺害。ソヌはその死体をスーツケースに入れて運び、山の中に埋めたのだった。この時ソヌはスジンに「ひとまずジフンの寮に行ってろ」と言うが、スジンの未来の夫ジフンはこの時点ですでに2人の人生に登場しており、その後ソヌとジフンが一緒に働いていたことからも、元々この2人は友人だったのかもしれない。
- エレベーター
- 退院後に自宅マンションのエレベーターに乗った途端、停電が起こり中に閉じ込められて失神するスジン。このことがトリガーとなって、その後、記憶が断片的に蘇り、その過去に入り込んでいく場所であり装置が、度々登場し緊迫感溢れるシーンを生み出すエレベーターだ。誰もいない狭い閉鎖的な密室であるエレベーターで出会う人物たち、スーツを着た怪しい中年男(父親)や、リュックを背負った女子高生(過去の自分)は、あまりにも実体化しておりリアルなので観る側は時に混乱が生じる。スジンが実の夫ジフンとエレベーターの中で遭遇し、その後2人の自宅でスジンが印鑑を見つけるシーンも思い出した過去の記憶である。一方、ソウル市瑞草区のマンション903号室を訪れたスジンの前にジフンが現れ、襲われるシーンは記憶ではなくリアルタイムの出来事。
- 記憶を失ったあの夜の事件
- ドリームタウン計画という一大事業に失敗し、不渡りを出したサムジョン建築事務所の代表イ・ジフンは、建設現場で借金取りのヤクザから妻キム・スジンに保険金をかけて殺害し、借金を返済することを命じられる。しかし男はジフンが用意した毒(青酸カリ?)が入ったワインを飲み、泡を吹いて弱っているところをジフンにナイフでめった刺しにされて殺される。ジフンは死体を生コンクリートの中に埋めて隠す。そこに離婚の件で呼び出されていたスジンが、姿を現わす。彼女のカバンから落ちたガイドブックを見て、スジンがカナダ移住を考えていることを知り、裏切られたとジフンは激怒。スジンを絞殺しようとするが、逆に鉄パイプで殴られて失神する。そこにキム・ソヌが駆けつけて生コンクリートの中にジフンを投げ入れて始末する(しかしジフンは生き残る)。「あの時も今も、お兄ちゃんは変わらない。1人で決めて、すべてを背負う。ごめんなさい、お兄ちゃん。私のせいで。許して」。そしてスジンは階下に身を投げる。そのようにしてスジンは記憶を全て失ったのだ(この後から、映画は始まる)。
- ソヌのウソ
- なぜソヌは記憶を失ったスジンに自分は夫だとウソをついたのか? それはスジンが責任を重く感じて投身自殺を図り記憶を失うきっかけとなった、あの夜の悲痛な出来事と、学生時代に自分を襲ってきた養父をソヌが殺害した、ショッキングで恐ろしいこの二つの事件を思い出させないためだったと推測できる。山で滑落事故に遭い記憶を失ったとウソをつき、彼女の過去を知っている友人たちとの関係を遮断し、韓国を離れることで、彼女がこのまま過去の辛い記憶を取り戻すことなく、2人が子供の頃から住みたいと夢見ていたヴァーミリオン湖があるカナダで人生を再出発させて、幸せになって欲しいという兄の一途な思いと愛情がこのウソに込められていたのだろう。家族を失い2人だけでお互いを頼りに生きてきた兄妹の深い絆が、この映画のエッセンスなのだ。
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