INTRODUCTION
40年前のマスターピース
HIPHOPカルチャーのルーツに、リスペクト!
HIPHOPが生まれたのは、今から40年前のニューヨーク。DJ、ラップ、ダンス(ブレイキン)、グラフィティ…それまで世の中に存在しなかった全く新しいサブカルチャーを描いた『ワイルド・スタイル』は日本でも1983年に公開され、世界中で熱狂を呼んだ。それから40年後の現在、音楽やファッション、文化の中に当たり前に定着しているHIPHOP。その存在を最初に世に知らしめたのが、本作『ワイルド・スタイル』なのだ。
DJ、ラップ、ブレイキン、グラフィティ
リアルな1982年ニューヨークの熱気が、ここに
1982年、監督チャーリー・エーハンから「この新しいカルチャーHIPHOPを映画にしよう」と提案されたFab5Freddyは仲間に声をかけ、本作『ワイルド・スタイル』を制作した。映画に出演したのは、「Lee」のサブウェイアートで有名なグラフィティライター、リー・キノネスをはじめ、当時のシーンの真っ只中にいた本物のライターやDJ、ダンサーたち。HIPHOP黎明期のリアルな空気感をそのままスクリーンで体感できる。
STORY
1982年、ニューヨーク、サウス・ブロンクス。レイモンドは謎のライター “ZORO”として、深夜の車両基地へ忍び込み、地下鉄にグラフィティを描いていた。 “ZORO”のグラフィティは評判を呼んだが、違法行為のため正体を明かせずにいた。そんな時、レイモンドは新聞記者ヴァージニアと出会い、仕事としてグラフィティを描かないか、と誘われるが…。
PRODUCTION NOTE
1982年『ワイルド・スタイル』はこうして生まれた
Wild Style Train by Dondi in The Bronx 1981 photo by Charlie Ahearn
ニューヨークに移り住んだばかりのチャーリー・エーハンは、スミスプロジェクトという公営住宅地の壁に描かれたグラフィティを目にする。漫画のキャラクターやLEEの大きなロゴが描かれたパワフルな作品。それこそが、後に『ワイルド・スタイル』で主人公を演じることになるリー・キノネスによるグラフィティだった。
リーの作品に感銘を受けたチャーリーは彼と知り合いになり、自分の作品に出てもらいたいと秘かに願っていた。そんな時、タイムズスクエアの展覧会で、一人の男に話しかけられる。彼の名前はフレッド・ブラスワイト a.k.a. Fab 5 Freddy。チャーリーが映画を撮っていると聞いた彼は「ラップ音楽とグラフィティを融合させた映画を作らないか?」とチャーリーに提案する。

当時のシーンで顔が広いFab 5 Freddyが仲介役となり、リーと知り合ったチャーリーは、リーを主役に映画を作るべく動き始める。当時はまだインディペンデント映画が世に出ることはほとんどなかった時代。まだジム・ジャームッシュやスパイク・リーもまだ有名になっていなかった。資金集めに苦労しつつも、チャーリーは脚本を書き、キャスティングを進めていった。

グラフィティをボムることは当時すでに違法行為として取締られ、リーも警察にマークされていた。だから、映画を作るにあたって、出演者はほぼ自分自身がモデルになっていても、名前を変え、あくまで“架空のキャラクター”して出演することになった。

リーは、リー自身よりもより典型的なグラフィティライターとして描かれた。闇に紛れて正体を隠すための黒い帽子もリーは普段被っていなかったが、ライターの象徴として劇中では被っている。

映画の準備をしている頃、「リーがPINKというタグを描く、ワイルドでかわいい女の子とつきあっているらしい」という噂を耳にしたチャーリーは実際に恋愛中だったふたりのロマンスをストーリーに取り入れることにした。そんな風に現実に起きていることはどんどん脚本に取り入れられていった。

チャーリーは、伝説のライターPHASE2にも出演してもらいたかったが、実現しなかった。PHASE2の伝説のライターという設定は、Fab5 Freddy自身のシーンの仕掛け人という設定とミックスされ、フェード(PHADE)というキャラクターができあがった。

Busy Bee Wild Style tour Japan 1983 photo Charlie Ahearn
ロックステディクルーは、レディピンクがぜひ映画に登場させたいとパーティに呼び、チャーリーに引き合わせた。彼らはその場で手拍子に合わせてダンスを披露し、すっかり魅了されたチャーリーは彼らにも出演してもらおうと決めた。

こうして、まだ「HIPHOP」という言葉も存在していなかった当時、Fab 5 Freddyがハブになり人と人とがつながって、地下鉄やアンダーグラウンドで活動していたグラフィティのカルチャーと、パーティで活動していたDJやMC、ダンサーのカルチャーが融合した映画『ワイルド・スタイル』は出来上がったのだ。

1983年、カズ、フラン葛井夫妻は日本での『ワイルド・スタイル』劇場公開に合わせて、総勢36名のスタッフと出演者を日本に招聘した。東京では、西武百貨店でイベントをやったり、「笑っていいとも」にも出演するなどプロモーション活動をこなし、ツバキハウス(当時新宿にあったクラブ)でライブを行った。これが、日本人が初めてHIPHOPに触れた歴史的事件となり、この時のパフォーマンスを見たのちのDJ KRUSHがDJを志すきっかけとなったのは有名なエピソードとして知られている。
DIRECTOR'S MESSAGE
ヒップホップとは、最もダイレクトに人々の心を掴めるカルチャーなんだ。自分自身をオープンに表現することができ、また、大人ではなくキッズ/子どもたちによってつくられたものだった。
企業の力でなく、レコードを売るためではなく、洋服ブランドをプロモートするためでもない。それは子どもたちが自らを表現するためにグラフィティやダンス、そしてDJという手法を選びとったものなんだ。
その中で特にMCはとても重要だ。なぜなら、80年代のそれは若者たちの間で「詩」の重要性を共有するきっかけとなったから。このことにはまだ多くの人が気づいていないのだけれど、子どもたちはただ何も考えないでリリックを書いていたわけではないんだ。
そしてそのことが、子どもたちの表現力や感受性、許容力を育て、またそれらの力を使って進むべき道筋を知る上で、とても大事な役割を担った。それがヒップホップが、今日もとても重要とされている理由なんだ。
チャーリー・エーハン
「ワイルド・スタイル」監督
COMMENT
記録としての価値は無論、『人間の証明』NYロケで
初期ヒップホップ文化の一端を目撃していた葛井克亮氏が、
数年後カンヌで本作にいち早く注目、
世界に先駆けての日本公開に至った……
という歴史的経緯もスリリング!
宇多丸
(RHYMESTER)
元々ブレイキンから入った自分にとってラップやDJ、
グラフィティといったHIPHOPカルチャー全体の
雰囲気を教えてくれたのが、
まさにこの映画でした。
40年たった今でも、これがバイブルです。
若い層にも観てもらいたいと思います。
Zeebra
(Hip Hop Activist)
"We're still doin' the Wild Style"
2019 年にサウス・ブロンクスで
グランドマスターカズに会った際に彼が言い放った言葉が、
今でも強烈に記憶に残っている。
そんなカズが若かりし頃のほっそりと痩せている姿が見られるのも、
この映画の魅力のひとつだと思う。
木村昴
(声優)
文化の性質上、ヒップホップの4大要素の中でも
1番姿が見えないライターが商業化に挟まれ悩む姿は
見てて苦しいけど稼いでほしい。
1996年(15歳)に渋谷パルコで見た後にそんな気持ちを抱きつつ、
見事に終電を逃し牛丼屋で朝を迎えたのを忘れません。
ブリンブリンより次の朝には街の景色を塗り替える方が
カッコいいっす!
サイプレス上野
(ラッパー)
DJがプレイするビートに反応するMC、ブレイカー、ライターたち。
一つのリズムに乗りながらそれぞれが得意な役割を分担して
カルチャーを形成していく
ヒップホップの在り方こそが多様で複雑な
現在を生きていくためのヒントだ。

A to the K? の後のファブ・5・フレディーを見よ!
ダースレイダー
(ラッパー)
20世紀の情熱が21世紀の僕らに伝わるということ。
それは創作の原体験はいつの時代も変わらないということ。
味のあるディティールを通して、
確かに揺さぶられるものがありました。
クボタカイ
(ラッパー/シンガーソングライター)