この映画の成功はビリー役の演技にかかっていた。そのため2000人以上もの少年たちのオーディションが行われた。ダルドリー監督は語る。「演技ができて、踊れて、北東部出身で正しい訛りがあって、年頃もピッタリの子を見つけようなんて高望みだった。だが、ついにジェイミーを見つけた。干し草の中から針を見つけたんだよ」と明かす。
友達の友達に勧められてオーディションを受けたというジェイミー・ベルは、6歳からダンスを始めた。「ある大会で女の子がリズムをはずしてタップ・ダンスをするのを見て、僕ならもっと上手にできるよって言ったらママが教室に通わせてくれたんだ。でも慣れるまではすごく練習しなくちゃいけないし、学校では、女がやることだって言われた。だから男らしくサッカーの練習に出てから、内緒でダンス教室に通っていたんだ」
ダルドリー監督との共同作業については、「監督はこうしなさい、ではなく、こんな風にやってみてもいいよって言うんだ。僕のアイデアも取り入れられたよ。ダンスシーンはみんなで完璧にやらなくちゃいけないから、すごく疲れた。T・レックスやその他の音楽がだんだん好きになっていったので、音楽にとても助けられたけどね」と振り返った。
ウィルキンソン先生役のジュリー・ウォルターズは、主人公ビリーについて「彼は男の世界で生まれ育ったから、急いで大人にならなくてはいけない。彼がダンスを必要としている理由はそこにあるの。ダンスはすべてから解き放ってくれるー怒りや悲しみを表す声なのよ」と語っている。
振付のピーター・ダーリングは子供たちが踊っている映像をいくつも観たり、ジェイミー・ベルの動きを観察したりして振付をした。「ジェイミー自身も外の世界へ出たい、自由になりたいと望んでいるのが感じられた。だから彼の振付は攻撃的なものにした。例えばビリーが踊りながら壁に向かっていくシーンは、壁を突き破ろうとすることメタファーだが、荒っぽい非女性的なダンスもあるんだということも示している」
撮影監督のブライアン・トゥファーノは、ピケラインの中に入り込んで撮影し、押し合いへし合いする人並みの中で地面に投げ出されたほど。ストライキを起こす10万人の怒りのエネルギーを捉えるため、カメラのフレームの中で演技をしてもらうのではなく、キャストたちの演技に合わせてフレームを決めたことでより臨場感のあるパワフルな映像に仕上がった。
またダンスシーンでは、よりワイドでオープンなフレーミングにし、周囲の圧力から自由になろうとするビリーの思いを際立たせた。「1930年代のフレッド・アステアの映画で使われた手法で撮影したんだ」と明かしている。
撮影は1999年8月、イングランド北東部でスタートしたが、ロケ地探しで特に難航したのは現役の採掘場探し。幸い北東部に残っていた最後の炭坑を確保できた。ロケ地となったイージントンは、まさにリー・ホールが念頭において脚本を書き上げた場所だった。
また群集シーンのエキストラは地元の新聞で募集され、北東部の400人以上の人々が映画づくりの“魅力”に触れた。若きスター・ジェイミー・ベルを一目見ようと訪れる少女たちも日に日に増えたが、彼はファン全員に平等に接していた。中には毎日通ってくる熱心な少女もいた。撮影隊の来訪は当時、地元に話題と経済効果を生み、活気をもたらしたのだった。
脚本のリー・ホールは、自分の子供時代のことを書いていた時に、この本作のインスピレーションが閃いたという。1984年の炭坑ストライキは英国の戦後史における重要な事件である。「ストライキの失敗を決定的にした共同体の中の様々な緊張関係を見つめることで、あの事件を間接的に描きたいと思った。家族や地元社会に逆らい、より大きな世界に立ち向かう少年のイメージが浮かぶと、物語はひとりでに出来上がっていった」と語っている。
またバレエに関してはリサーチの必要があり、実際にロイヤル・バレエ学校を訪れ、ビリーと同じような小さな村の出身のダンサーたちにインタビューを行い、脚本の参考にした。
ケン・ローチとビクトル・エリセとビル・ダグラスを尊敬しているホールは、脚本のあちこちでオマージュを捧げている。「これは、主人公が人生の美しさと意義を見つける青春物語であり、『ケス』と『フル・モンティ』と『ブラス!』を合わせたような作品なんだ」と語っている。
プロデューサーのグレッグ・ブレンマンは脚本のリー・ホールが持ち込んだ1枚のシノプスに胸を躍らせた。厳しい状況におかれた炭鉱地帯でバレエ・ダンサーを志す少年というアイデアに魅了されたのだ。また、祖父が炭坑労働者だったというもう一人のプロデューサー、ジョン・フィンにとっては他人事ではなかった。「母方の家族は全員、今回のロケ地の採掘場で働いていたんだ。一族の中で家を出てカレッジに進んだのは僕が最初だったから、故郷から出ていく気持ちもよくわかるよ」と話す。
そんな本作の監督に白羽の矢が立ったのはスティーヴン・ダルドリーだった。当時、英国で最も成功している劇場ロイヤル・コートの芸術監督を務め、ロンドンやブロードウェイの一流劇場で数々の名舞台をプロデュース・演出し、“現代演劇界の顔”として知られていたダルドリーは、すでに新たな一歩を踏み出す用意ができていた。ダルドリーはプロデューサー陣から渡されたリー・ホールの脚本に感動し、「これこそ自分が撮りたい映画だ」と思ったという。「僕はノッティング・ヒルにあるゲート・シアターを運営していた頃にリーと組んだことがあるが、その当時からなんてすごい才能の持ち主だろうと思っていたんだ」と振り返っている。そして本作がスティーヴン・ダルドリーの長編映画監督デビュー作となった。