コロンビア・ピクチャーズのDevelopment Excutive、ハリウッド・リポーターの国際版編集長を務めたあと、制作会社Trinacaでエクセキューティブプロデューサーを務める。1998年に制作会社LOMA NASHAを共同で立ち上げ、着想、脚本執筆、公開時のマーケティングなどの、プロジェクトを通した展開戦略に力を尽くしている。2001年、さらにVENDREDI FILMを共同で立ち上げ、この2つの制作会社で12本の長編を制作している。主な長編作品として、国際映画祭で数々の賞を受賞し日本でも大ヒットした『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』(14)、第29回東京国際映画祭ワールド・フォーカス部門で上映された『ヘヴン・ウィル・ウェイト』(16/劇場未公開)などがある。また、プロデューサー、配給、テレビの映画編成担当者、エージェント、ジャーナリストなど、映画業界の女性たちからなるCERCLE FEMININ DU CINEMA FRANÇAIS (フランス映画の女性サークル)の設立者でもある。
本作のアイデアはどこから着想を得ましたか?
母性というテーマは、汲めども尽きぬ物語の源泉です。あまりにもたくさん物語があるので、群像劇にするしかないと思いました。私はこのジャンルの大ファンで、繰り返し観ては、見落としていた小さなディテールを発見して楽しんでいます。登場人物の接点や、シーン同士のつながりなどですね。今回とくに探究してみたかったのは、育児に不安を抱える共和国大統領でもある一人の母親です。また、スペクトルのもう一方の端には、息子によりよい将来を保証するため、国を出て我が子と離れて暮らすことを選んだ中国人娼婦。母親の最も美しい埋葬を考える以外に母親とは関係がなくなってしまった主婦。母の思い出と共に生きる息子。母親に対して過保護なユダヤ人の息子。母親との複雑な関係のせいで、母性に対して三者三様の関わり方をし、結局、母の日に母親を置き去りにする三姉妹。そして、すべての物語をつなぐ赤い糸として、「母の日」の由来が語られます。
今回の脚本の執筆は特に複雑でしたか?
これまでのシナリオの時より長くかかりましたが、面白いプロセスでした。ジグソーパズルを立ち上げ、登場人物の軌跡を交差させ、群像劇という「合唱」の楽譜を想像する必要がありました。私はこの作業に幾度も向き合い、書き直す度にキャラクターの人物像を修正しなければなりませんでした。その最たる例は、たぶん女性大統領でしょう。オドレイ・フルーロがOKをくれたバージョンから最終版までに、大統領の母親業との関わり方を3回も根本から変えました。シナリオの最終版がオドレイに届いたのは、クランクイン一週間前でした。シナリオは、人々との出会いや見聞きした話からも生まれるものであり、それが私の登場人物を育てます。その点、この母親というテーマについては、いくらでもストーリーがあります。しかも編集で、また一からやり直すことになったんですよ!
どんな母親像を表現したかったのですか?
母親讃歌を作るつもりはなく、また母親との関係のややこしさや、母親業への関わり方の難しさを過小評価したくありませんでした。あの生殖機能というものを、私は全く賛美していません。母親は、その地位によって、巨大な権力を持っていると思います。あらゆる権力は有害・有毒かつ破壊的となる可能性があります。そのことも扱いたいテーマでした。正直なところ、私には「母性本能」の意味が分からないし、それが実在するかどうかも知りません。自分の子どもができた時に初めて、自分の母とのつながりと、自分の母性に気づくのだと思います。母親であることは、ただ子どもを産むことよりずっと複雑だと思います・・・。
口うるさい過干渉な親は出てきませんね。
1人いますよ、脇役ですがね。バスの中で電話でこう言う人です。「やめて。決めるのは、母親である私よ」。権力濫用と言ったのは、こういうことでもあります。大勢の母親がもっている、あの確信です。父親より自分のほうがよく知っていると。中には父親に出る幕を与えない人もいます。映画では、カルメン・マウラが見事に演じてくれたテレーズが、完璧な母親に近いように感じられます。それは、テレーズ自身の物語と母親業との関わりを通して伝わってくるはずです。テレーズは6人の子の母親で、深い愛情を注ぐけれど余計な口出しや干渉はしない。寛容さや自己犠牲、献身という美徳を備えているからです。彼女は誰にも評価を下さない。ただそこにいるんです。
大胆にも女性の共和国大統領を映画にしましたね。
第一に、集合的無意識の中に何か痕跡を残すことができる余地があるとしたら、それは映画やテレビだからです。でも私はもっと踏み込みたいと思いました。私はいつの日か女性大統領が誕生すると確信していますが、その大統領が母親になった時、人々はどのような反応をするか見てみたいと思ったからです。今日でもまだ、女性は子どもを持つか、キャリアを選ぶかの選択を迫られることが多いのが現実です。社会はそのことをどう考えるのか?これらの選択をどのようにサポートするのか? 私は、この女性大統領を作品に登場させたかった。彼女は他の女性たち同様、母となったがゆえに、仕事だけやっていればよいというわけにはいかなくなります。私の関心は、そういった仕事と母親業の両立にあるのです。この問題については、すべてが解決したとはとても言えません。女性が母親業とキャリアのどちらも犠牲にせず、両立できるように条件と手段を提供するまでには全然なっていません。そして役割分担に関しては、まだまだ進歩が必要です。
女性として自己実現したいと考えるのも、また1つの母親の姿ですよね。
その通りです。なぜなら女性の多くが母になると女であることを忘れ、多くの子どもが母親も女であることを忘れていると思うからです。個人的には、自分の母親の背後に女を見ることができると、より平和な関係でいられる気がします。それは母親と対話する、より穏やかな方法なのです。
台本の読み合わせはしましたか?
家族ごとの小グループで読み合わせをしました。三姉妹と母親で一緒に、あるいはニコール・ガルシアとヴァンサン・ドゥディエンヌで一緒に、という具合です。その時ニコールがいろいろと惜しみなく提案してくれたアイデアは、積極的に取り入れました。それから全体の総読み合わせをして、音楽がスムーズに流れていることを音読で確かめました。結局それが、この合唱曲の声部に耳を傾ける唯一無二の機会となりました。
監督業にはとても魅力がありますが、カップルや出会いを「創造する」ことはその1つです。ガルシアとドゥディエンヌの組み合わせは、まさに夢が現実になったようでした。
私はパスカル・ドゥモロンが主演した『LE RIRE DE MA MÈRE』(17/日本未公開)で製作を務めましたが、本作では、問題を抱えながらも優しく感受性の豊かな人物像を彼と掘り下げたいと思いました。ギュスタヴ・ケルヴェンとは面識がありませんでしたが、フランス大統領の夫役は彼以外に考えられませんでした。もし断られていたら、絶望したでしょう。求めていたのは「ファースト・ジェントルマン」として安心感のある岩のような人であり、透明な普通の人ではダメだったのです。彼を見ていると、言葉数が少なくても、女性大統領がなぜ彼に魅かれるのか、彼は妻に何をもたらしているのか分かります。妻に対する態度と眼差しだけでね。
エリゼ宮(大統領官邸)のシーンの撮影はどこで行ったのですか?
屋外についてはエリゼ宮の中庭とロビーです。共和国大統領と大統領府が撮影を許可してくれました。確かマクロン大統領はOKを出す前に『ヘヴン・ウィル・ウェイト』を観てくださったはずです。ブリジット夫人が『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』を観られたことは知っていました。フランソワ・オランド前大統領は、退任前に官邸の住居部分の見学を許可してくださり、すごくためになりました。というのは、それがごく普通のオスマン様式のアパルトマンで、とくに広いわけでもないことが分かったからです。おかげで、同じような広さのアパルトマンで撮影できました。執務室のほうは、パリにある、インテリアが大統領官邸風の個人邸宅で撮影しました。
本作には群像劇映画に不可欠である真のリズム感があります。それはどのように出したのでしょう?
脚本段階ではいろいろ妄想します。登場人物の間につながりを作りたいとか、ダンスが途切れなく続く感じにしたいとか。撮影現場で想像を膨らませることもあります。ちょっとしたアクシデントや小道具の提案から、人物をつなぐアイデアが浮かんだりするんです。というのも、繰り返しますが、私は登場人物の間に、たとえ出会わない人同士であっても、つながりを織り上げたいのです。私が群像劇を観る時に楽しいと思うのは、まさにそこだからです。また、それぞれのシチュエーションや人物の対応関係の中には、編集段階で初めて明らかにしたものもあります。
音楽で意図したことは?
私は映画音楽作曲家の娘ですが、いつも時間不足で「追い詰められる」のを恐れているので、1人の作曲家だけに頼るのはとても不安です。本作では、感情の動きに従って発展していくような音楽を構築したいと思いました。そこで改めてルドヴィコ・エイナウディの作品とマット・ダンクリーの作品から曲を選び、若手の作曲家・アレンジャーのロナン・マイヤールに、童謡「きらきら星」の原曲であるモーツァルトの主題を元にした音楽を依頼しました。私の映画音楽のアプローチもまた、合唱的なのです。
どう解釈して何処に答えを着地させるのでしょう…?
面倒くさいで括れない
母の賛歌!